見ようとするから見えるもの

何かを理解したいと思ったとき

本で読んだり、調べたり。

実際に自分で経験をしてみたりします。

 

心から理解したいと思うことも、

ただ何となく知りたいなと思うこともありますが、

 

上辺だけの理解ではなく、本当に理解したいと思ったときには、

情報も、経験も、思考も大切です。

 

同時にそれができれば一番良いのですが、 

 

そのすべてが得られる環境というのは

どうしても、ある人、ない人がいて、

 

大体の人が、ばらばらの時期に

一つづつ習得していくと思います。

 

それができる時期も、人によって様々です。

 

 

 

なので、もし、理解できたことを発信する人がいても、

 

考えてもピンとこないけれども、

とりあえず自分の記憶に入れて、

後からの経験を持って理解することもあります。

その場合、

積極的に経験することが重要です。

 

自分が経験したことと照らし合わせ、

思考することで、それを理解することもあります。

その場合、

沢山の情報に触れ、思考することが重要です。

 

ただ素直にそれを信じて実践することで、

理解してなくても、

自然に苦労をしないこともあります。

その場合、いかに素直でいられるか同時に、

本当の理解者に恵まれているかが重要です。

 

私も、自分の経験や、情報や、思考することで、

自分なりに整理したことをここに書いていますが、

それは、まだ十分な理解ではないかもしれません。

 

でも、自分よりも知識や経験や、思考する力がある人が、

この未熟なものを見た時に、

あるいは、私が成長して、

振り返ってこれを見た時に、

 

「ん?」

と違和感を覚えることで、理解につながることもあるのです。

 

人それぞれに個性や成長段階があるように、

今の自分の正直な思いに気づくには、

色んな人の思考に触れ、

違和感を覚えたり、

腑に落ちたり、

心の答え合わせのようなものが、

自分の成長に役立つこともあります。

 

だから、自分の考えていることなんて・・・

 

と思わず、

 

誰かの何かの役に立てたらいいな、

 

くらいの思いで、

表現し続けていきたいな、と思います。

 

前置きが長くなりましたが、

 

「見ようとするから見えるもの」

 

の私の中身を出したいと思います。(長くなるかもしれません)

 

 

私は子ども達の笑顔が好きです。

 

思いを押し込まず、好きなことを自由にしている時、

 

その笑顔を見て、

 

ここにいるみんなの笑顔を誰かに見せたい!

 

と思うくらい、本当に幸せを感じます。

 

肖像権があったりするので、架空の子どもに変えて、絵にかいたりするのですが(笑)

 

素直で、無邪気で、感情をぶつけ合って喧嘩する姿も、

ふとした時に見える優しさも、

甘えたくて、甘えられない葛藤も、

いろんな子どもたちの

全部が可愛くて仕方ないのです。

 

ただ、正直、

「子ども好きなんでしょ?私たちは他にやることあるし、忙しいからみててよ」

 

そういう親がいるのも、現実なんです。

 

実際に、私は昔の職場で上司に、

 

「あなたがする仕事はそれじゃないでしょ。そんなことは○○にさせといたらいいの」

 

という人がいました。

 

確かに、責任があることを任されている最中だったのですが、

 

”させといたらいい”

 

という言葉が本当に嫌で、モヤモヤしました。

 

こうやって、表面では上手に「お願いねー!」

 

と言いながら、心の中では

 

「あんたはこれしかできないでしょ?私はもっと大事なことをしているのよ」

 

というような、人を馬鹿にして利用するようなことを思っているんだと思ったら、

 

自分がこれまで、大変だろうからと善意で引き受けていた仕事も、

 

全部が嫌になってしまったのです。

 

 

今、子ども達を遊ばせる中でも、同じようなことを感じて、

 

一気にやる気が起きなくなり、体力的な疲れが押し寄せることがあります。

 

 

そんな時でも子ども達はいつも変わらず、元気で個性的で

パワーがあふれているので、

転んで怪我をさせてしまったりして。

 

すると、それを見てか聞いてか、

重い腰を上げ、一時的に遊ばせることを助けてくれて、

「嫌々すると、怪我をさせるぞ」

と注意をしてくれた大人もいます。

 

年齢の大きな子ども達は

私の疲れや大変さを敏感に感じ、

サポートしてくれるように頑張って

下の子を一生懸命見てくれます。

 

心から支えてくれるその優しさがありがたくて、

そこに甘えた私は、

たまった家事をするために

一旦お願いして離れました。

 

すると、その一部分の光景を見て、

「子どもに面倒を押し付けて」

と私に遠回しに嫌味を言う大人もいました。

 

仕事でないので、どんなに見ていてもお金なんてもらえません。

 

水筒も持ってこない子どもや、朝からご飯を食べさせてもらっていない子もいるので、

熱中症などを考えると怖くて、

 

結局私が用意してしまうこともあります。

 

でも、それを続けてしまっているので、

どんどん子ども達は水筒さえも持ってこなくなり、

見ることができていない親は、何も知らずにいます。

 

そして、勝手にもらったらだめ!と

子どもに怒るだけで、子ども達は

我慢をしてしまうのです。

 

「かわいそうなあなたの子どもの為に、私の子どもで遊ばせてあげている」

という思いを持っているかのような、言葉も受けたりします。

 

いろんなことを考えると、

さすがにどんどん私の心は疲れてきてしまうのです。

 

でも、その時に、

一人のおばあちゃんは、声をかけに来てくれて、

子ども達にお菓子を持ってきてくれます。

 

「いつも大変でしょう?本当にありがとうね」

といって、私には少し多めにお菓子をくれるのです。

 

「ありがとうございます。頑張ってくれている大きい子たちに分けますね」

と言うと、少し悲しそうな顔をしました。

 

そうじゃないの、あなたに食べてほしいのよ。

というような思いを感じた私は、さらにありがたくなって、

 

「ありがとうございます!美味しいです^^」

と一つチョコを口に入れました。

 

すると、子どもたちみんなにチョコを渡せたことを確認したおばあさんは、

嬉しそうに、ゆっくり帰っていきました。

 

「あぁ、私はまだまだ未熟だな。

子ども達が好きで、この時間が幸せなはずなのに。

誰かに馬鹿にされているように感じたことが嫌で、

子どもを大事にする余裕がないだけの親を許せず、

心が乱れてしまうんだな」

 

と反省しました。

 

すると、それだけで、

おじいさんに言われた注意や、気付せるように伝えてくれていた言葉も、

受け取る角度が変わって、

「ありがたいな」と思えたのです。

 

子ども達の話を聞いていると、

子ども達は本当に色々なこと感じています。

 

「おかあさん、仕事で疲れて寝てるから」

「ご飯とか、どうせ白ご飯だけだしいらない」

「外で遊んで来いって言われる」

 

子ども達を通して見えることは、

親の大変さであり、優しさなんだなと思ったのです。

 

大変さを見てるから、気を使ったり、頑張ったり、我慢したり。

 

優しさがあるのは、優しさをちゃんともらっているからなんだと思ったり。

 

そして、やっぱり私には愚痴ばかりを言ってくれる子ども達も、

母親が、

「ご飯だよー!と呼んでくれるだけで、とても笑顔になったり、

 

父親が一緒に遊んでくれるだけで、いつもと比べ物にならない嬉しい顔を見せてくれたり。

 

「親には怒られたけど、美味しかった!ありがとう!」

 

と言葉をくれる子がいたり。

 

見ようとしなければ見えないもの、

 

わかってるようでわかっていないことは、

 

まだまだたくさんあるんだな、と

 

日々の中で思い知らされるのです。

 

 

表面を見るだけでなく、

 

一部を見るだけでなく、

 

これからもいろんなことを理解し、

感謝できる心を

育てていきたいなと思います。

 

2023/05/21    未来叶rie